秋の雨が降っている。窓を開けると、冷たく湿った空気が部屋の中にまで忍び込んでくる。止むこともなく、それどころか、時折強い雨がアスファルトに音を立てている。つい先日まで夏だったとは思えないほど、秋というのはあっという間にやってくる。
あの夏の暑さは何処へ行ってしまったのだろうか。個人的に暑いのはとても嫌いなので、早く通り過ぎてくれないかと思っていたけど、いざそれが通り過ぎてしまうと、暑さの記憶さえ曖昧になってしまう。同じように、あらゆることの記憶も、過ぎ去ってしまうとリアリティを失う。
村上春樹「女のいない男たち」をふと読んでみたくなり、頁を繰る。「風の歌を聴け」からすべての作品の初版本を収集しているので(エッセイ等を除く)、「女のいない男たち」も発売日に買っていたのだが、気が向いた時に一篇ずつ読むことにしていたら、まだ読了できないでいるのだ。そしてやっと最後から二篇目にあたる「木野」を読む。
「女のいない男たち」は最近の村上春樹としては上質の作品群だ。あくまでも個人的な感想だが、村上氏は「ダンス・ダンス・ダンス」でその才能をほとんど消失してしまったと思っているので、その後の作品の多くは “昔からの義理” のような感じで読むことが多い。正直、「ダンス・ダンス・ダンス」以降で評価出来るのは、「スプートニクの恋人」と本作「女のいない男たち」くらいだ。
気に入ったウイスキーを少しずつ楽しみながら飲むように、気分が乗った時にだけこの「女のいない男たち」を読むようにしてるうちに、こんなにも時間が経ってしまった。自分は、本を読む時にはいつもボリュームを落として音楽をかけるのだが、今回は原田知世「music & me」を選んだ。彼女の優しい声が雨降りにはとても合う気がしたのだ。
「木野」は、例によって村上氏お得意の “喪失と復讐” に関する話である。誤解を恐れずに言えば、村上春樹のほとんどの作品は “喪失と復讐” しか描いていない。とくに近年はそれが顕著になってきている。作者本人が気づいているかはわからないけど。
「木野」において復讐は、過去の自分から起こされる。村上作品の多くがそうであるように、悪に手を染めるわけでもない一見まっとうな主人公は、自ら押し殺した感情に後になってから苦しめられる。そしてそれは主人公の人生を根こそぎ奪い去ってしまう。
村上春樹の作品は基本的にアンハッピーだ。それを楽しめるかどうかが、彼の評価を二分するのではないだろうか。
「木野」の中から、印象的な一節を引用してみる。
おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。
出典:村上春樹「女のいない男たち」(2014) 文藝春秋 pp.256-257
恋人と別れてすぐに新しい恋人をつくる人をよく見かける。そういった人は本当にたくさんいる。でも、と自分は思う。「木野」の主人公のように、痛みと真剣に向かい合わないで遣り過ごしまうと、それは必ず後になって自分自身に復讐されてしまうのだ。何年後か、あるいは何十年後か。物陰に密かに隠れて復讐の時を伺い続けた自分自身の業によって、人は思いがけない痛みをこうむることになる。そういう風に、人生は出来ているのだ。